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2007年7月21日 (土)

悲しみの涙が流れる日

会社の同期のお母様が不幸にあわれたので、

昨日は、仕事の後、通夜に行ってきました。

 

こういうものは行くのなのだな

と社会勉強しつつ、

他の同期と、フロアの先輩と、会社の重役も行き、

総勢30人くらいでいくって知った時はびっくりました。

小さな会社だからなのかしら?

場所は筑波でした。

 

香典の書き方や、焼香のマナーを上司に確認しつつ、

お通夜にむかいました。

 

参列している家族の中で、

同期が一人泣いていました。

数珠を堅く握り締めて、

涙をこらえようとして、

必死で立って、お辞儀をしながら、

泣いていました。

 

とても悲しい気分になりました。

 

式場を出て、帰りのタクシーを待つ間、

彼が後ろから走ってきました。

そして、泣きながら、必死に、

遠くから来ていただいてありがとうございます

と皆に御礼をつげ、

立ちながら、泣き崩れました。

 

僕をはじめ、同期誰もが声をかけられませんでした。

上司も先輩も黙って、見守っていました。

彼の泣き声が静かに響く中、

重役の一人が、

早く元気を出してね

と声をかけました。

そんな言葉もかけられなかった自分が

恥ずかしくなりました。

 

この間、本当に悲しい気分になりました。

僕の隣にいた他の同期は、泣いていました。

僕は、泣かないまでも、とても悲しい。

 

自分の親族の葬式には感じなかった感覚です。

それは、僕の感受性が強くなったせいかもしれません。

ただ、悲しみという感情に満たされてしまって、

人目をはばからず泣く姿を、初めて目の当たりしました。

 

初めて。は語弊がありますが、

でも、こんなに目に焼きついた姿は初めてです。

 

そして、思い出すたびに、悲しい気分になります。

 

僕は、あまり泣きません。

最近、号泣したのは、

「シルミド」「ホテルルワンダ」を見たときと、

芝居関係で、悔しかった時と、嬉しかったときくらいです。

 

二つの映画を見たときは、号泣しましたが、

それは、悲しみの共感ではなく、

「ふがいさな」「不条理に対するふがいなさ」

その一点に号泣していました。

 

悲しみの涙はきっと流したことがありません。

 

芝居の稽古で、

「涙の感情」で心を満たして、涙を流す稽古をやることがありますが、

僕は、たいがい、流せません。

だからこそ、彼の姿が忘れられないのかもしれない。

悲しみに満ちた涙を見て、

僕もはっきりと悲しくなった

初めての体験でした。

そして、その感覚は、

初めてのものでした。

  

悲しみで満たされる感覚ってこういう感じなんだ

と、後から振り返って思います。

 

初めてなわけがない!

と思うかもしれない。

忘れているだけかもしれない。

ただ、今の自分にとって、

ショックなほど新しい感覚でした。

 

余計なことを考えてしまうから、

悲しみで満たされるってことはなかっただろう

彼の悲しみが伝わってきて、初めて

自分でも、無条件に、感じれたのかもしれない

こんなことを考えるのは、演出病かしら?

もちろん、考えたのは、皆が無言のタクシーの中で。

 

僕は、

自分の親が死んだ時、泣くのだろうか?

兄弟が死んだ時、泣くのだろうか?

 

彼のような率直な悲しみの涙を流せるのだろうか?

 

今の僕には、分かりません。

 

ネイヴィーが死んだ時は、流せる気がします。

それは、彼が僕の中で特別っていうのもあるけど、

だんだん衰えが見え始めているからかもしれません。

 

だからこそ、今一緒にいれる時間を大切にしたいと思います。

それは、ネイヴィに限らず、他の皆に対しても同じこと。

 

今回は、こういう話なので、色付けなしにしました。

 

彼の泣いている姿は忘れないと思います。

 

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